責任と執着と…

子育て

全国的な大寒波。皆さんのお住まいの地域は雪はいかがでしょう。

私は、昨日は松江(出雲から50分ぐらいのとこ)に出勤してまして、昼過ぎからぐんぐん積りだし、「これはまずい」と思ったので、1時間早く帰らせてもらいましたが、それでもかなりマズかったです。前の車のブレーキランプがかろうじて見えるぐらいで、これをホワイトアウトというんか…とこわごわの運転でした。

出雲に近づくにつれて、雪も吹雪もなくなり、別世界。たった50分ぐらい移動しただけでこの違い!と思いましたね。ほんと、不要不急の外出はこういう時は控えた方がいいですね。そして、臨時休業などの英断ができる社会がもっと広がればいいと思います。

どこか一つのところで働くことに躊躇することの一つに、「自由が利かない」ってのがあると思うんですが、そこも、自分の状況とどこまで融通が利くのかを、自分の条件とともに提示できれば、雇われて働くことってそんなに嫌なものでもないなって最近思います。なので、もちろん業務に支障がないことを確認したうえですが、早く帰らせてもらえること、今日も雪で通勤が怖いので昨日からお休みいただくことにしてて、それを叶えてもらえること、とてもありがたい環境だと思います。

なんせ、もう仕事が作られていて、決められたことをすればお給料もらえるシステムって、素晴らしいから(笑)自分で事業している人であれば、一度は思うであろうことかと^^

そして、責任と執着について。

最近、ここでも書いているように、いろんな職場を転々と単発やパートで仕事している私ですが。

いろんな職場に行くので、もちろんいろんな人に出会います。

私は、人に敏感な方で、相手の言葉とか表情とか態度とか、そういうものに、イラっとしたり、なんで!?と思ったりしやすい性格なんですね。笑

その私が、色んな職場を転々としてても、それをほぼ感じない!

たまーにいますが(笑)、ま、そんなもんよね~感じ悪ぅ~、ぐらいで、さほど気にもならない。

あら、私、成長したのかしら?鈍感になったのかしら?って思ってたんですが、、

これって、『責任』がないから、相手に対する期待もなくて相手の態度に反応しないんだと思ったんですね。

もちろん与えられた仕事は「責任」をもってやります。

でも、“組織”としてどこに向かわないといけないとか、最後の〆の責任を負うってことが無い立場ではあるんですね。

その『責任』があると、どうしてもメンバーにもっとこうしてほしいとか、そういう望むものが出てきて、どうしてこうやってくれないの!?って想いが出てきて、相手を思い通りに変えたいという【執着】となって、周りの人にイライラしていくと思うんです。人なんか思い通りに変わらないのに。

思えば、そんなこと思ってないような顔して、どうして〇〇してくれないのか、とイラついていた過去を思い出します。それも、組織の目標に向かうためにはある程度足並みそろえる必要があることと、私の器の小ささだったと思います、ハイ。

それが、今は現実的にも大きな責任を担っていないことと、「人は自分の思い通りになんかならない」ってことを身に染みてわかってきたことで、周囲の人に対していい意味で期待もしていないので、いい人ばかりだな~って大変楽しく仕事をさせてもらってます!

が!!

そんな私がいまだ手放せない執着…それは…

子供に対して。我が子です。

人は自分の思うようにならないことは、この我が子たちから嫌というほど教えてもらったのに…

どうしても、どうにかしようとしてしまうのです。

それもきっと、『責任』があるからだと思うんですね。

子供は勝手に育つ、というけれど。

それも一理あるけれど。

やっぱり、やってはいけないこと、人に対する言葉遣い、親として大人として教えないといけないことはあると思うんです。

こと、我が家は男子3人なんで、どこから拾ってくるのか、まあ~言葉遣いがひどい。。(え?母の背中!?見て育ってる!?)

あと、小学生特有の、言ってはいけない言葉を敢えて言う時期ってありますよね!?いつの時代でもそこ通るんかって定番のやつ。

それを、それだからって、黙って見過ごすわけにはいかないんですよね、私は。

もしかしたら、口うるさい親かもしれない。でも、人としてダメなものはダメ。人が不快になるようなこと、人を傷つけるようなこと、ダメなものはダメ。

だから、色々言って聞かせて、たまには(いや結構…)ガミガミも言ってますが。。

あと、自由にさせようと、本人の意思を尊重しようと分かっちゃいるけど、あれこれ口を出してしまう。

それもこれも、親として人を傷つけたりせず、まっとうな道を歩む人になってほしいという『責任』があるからだと思うんです。

長男の不登校に対しても、学校行かなくてもなんとかなる!と思っていたのだけれど、本人が目指したいものができて、本人も頑張ってた。一区切りついたら、本人も気が抜けて、もういいわってなってて。それに対して本当にそれでいいのか!?って結構最近やりあってました。。

私は、このままではどうなることが考え得るかって話をコンコンと教えた。もちろんそうならないかもしれないけれど、いざそうなった時に、「こんなんなると思わんかった」となるのはあまりにもかわいそうで、先回りして口を出してしまう。

それも全て本人の体験、経験、人生だから、好きにさせればいいと思うけれど、選択肢を知らない中で、好きにさせればいいってのも違う気がする。だから、どんな先が考えられるかを伝えて、それを承知したうえで、今を決めなって言う。

ほんと、頭ではわかってるのに、この“執着”よ…って思う。

よく、「自分の子供もそうだったけど自由にさせても今、立派に社会で働いているから大丈夫!」みたいなのを聞いたり、見たりするんですが、それ『結果論』だから言えるんですよ。

きっとその人たちだって、その時はいっぱい悩んで、どうしようもなくて、自由にさせるしかないってことだったかもしれない。その結果がよかっただけ。

子育てを振り返って、もっと自由にさせればよかったと思うってのも聞くけれど、それも『結果論』であって、その結果が見えるまでは、子供の人生に対する責任というものに必死だったと思う。

私だって、よく思います。

少しでもこの子の未来が見えたなら、今こんなに言わなくてもいいのに…って。

それはその子を信じているという次元とはちょっと違って、信じているけれど、その結果どうなるかわからないから、もしかしたら…って思うから口うるさく言ってしまう。(それを信じていないというのだろうか?)

なんか、この葛藤、分かります??

親としても人としても未熟だなって思う。自分が。

私の思い通りになんかならないってわかってるのに、私の思う方に向けたくてやきもきする。

『責任』って【執着】になるんだなって思った話。

責任無いことに関しては、人は感情を揺さぶられることってない。

ほんと、この子育てに関しては、もう揺さぶられてばかり。

贅沢なことだけど、もし子供いなかったらこんなに日々感情が乱されることもなかったんだろうと思ってしまう。平穏な日々だったんだろうと。

でも一方で、やっぱり当たり前に、子供がいるからこその日々の“彩り”は半端ない。

最高な幸せも、最高な楽しさも、最高ないとおしさもたくさん感じさせてもらってる。

きっと、長男が18歳や20歳になったころ、その執着が緩むんだろうな。

だって、結果がそれなりに見えるわけだから。

そして、次男、三男と緩くなる。いや、もっと、執着が強くなるんだろうか。

第一子というのは、一心に親の愛情を受けた期間がある分(?)、なかなかツライ立場になりやすいね。

もちろん、強制したり、強要するのは違うと思うんで、私が知っている限りの選択肢とおおよそその結果について伝えています。これだけ、人生について12歳のうちからこんなに話すこともないよなって思いながら、それが話せるのはいいなって思います。

私の思う選択肢じゃないものを選んだ時、わかっちゃいるけど大丈夫か?、この執着を手放す、今練習中ですね。いや、修行みたいだ。うん。

母、成長させてもらってます!!

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